- 発達障害やニューロダイバーシティについて、違いとは何か?
- 医療的な考え方とニューロダイバーシティの考え方はどう異なるのか?
- 発達障害者やその家族にとって、適切なサポートとは何か?
「ニューロダイバーシティ(神経多様性)」
その概念についての議論が、発達障害にかかわる人たちを二分しています。
「ニューロダイバーシティ」という言葉は、最近よく知られるようになりました。
オーストラリアの社会科学者であるジュディ・シンジャーが唱えたもので、the Atlanticに1998年に掲載されました。
ニューロダイバーシティは、生物多様性に通じる考え方です。
私たちの惑星を舞台にした考え方を、私たちの社会に適用したものだといえます。
そして、ニューロダイバーシティは少数派の尊厳を守り容認し病理学的なものと考えない公民権運動の主張と一致するものです。
ニューロダイバーシティの推進者は、発達障害の人や親が困難に感じている特定の症状を改善しようと取り組むことを認めつつ、発達障害それ自体は疾患や障害などのようなものではないとします。
特に言葉に問題をかかえず、自分を伝えることができる、多くの発達障害の人たちは、発達障害は多様な脳の一つのかたちである。そして、そもそも正常な脳はなく、すべての人の脳は異なっているとニューロダイバーシティを用います。
彼らは込み入った社会での予測不可能な環境では、それらの違いのいくつかは障害として現れるかもしれないが、そうでない場合には障害となることは少なく、むしろその違いが才能として開花することもあると主張します。
「発達障害の人は、海に入ってしまった淡水魚のようなものです。
私たちを淡水に入れれば、問題はありません。
しかし、今は海に入ってしまったので苦労しているのです。」
ニューロダイバーシティの考え方を一部受け入れつつも、発達障害の人が直面する厳しい困難は、これまでの医療的な考え方のほうが救ってくれるものだと主張する人もいます。
こう主張する多くの人は、発達障害の子の親です。
言葉を話すことができない、重度の症状があり、消化器系の問題をかかえていたり、てんかんもかかえていたり、自傷行為や他害行為を行う、子どもの親です。
こうした、これまでの医療的な考え方を支持する人たちの多くは、発達障害に関連する深刻な障害に対する支援を求めています。
対照的にニューロダイバーシティを支持する人たちは、そうした考えは人の優劣につながる「優生学」と違いのない、発達障害の人の尊厳を脅かすものだと考えています。
ニューロダイバーシティという考えが、こうした発達障害に関わる人たちを分裂させたことはしかたのないことかもしれません。
しかし、私はこれらの考え方は相互に排斥するものではなく、発達障害には「大きな違い」も含まれていることを認識すれば、両方の考えをあわせもつことが必要だと考えます。
「障害」という言葉は、機能不全を引き起こしている原因が未知である症状を人が示しているときに使用されます。
「障害」という言葉は、標準化された尺度で機能を測ったときに平均を下回っていて、人が特定の状況において苦しめられるときに使用されます。
それらとは対照的に「違い」という言葉は、異なった特性にしか過ぎません。青い瞳や茶色い瞳のように。
それでは、発達障害において大きな違いとはどのようなものでしょうか。
発達障害の人の中には、言葉を話すことが全くできず、発達の遅れが深刻な人がいます。
一方で、高いIQを持ち学習も優れている人がいます。
両者に共通しているのは、社会的なコミュニケーションの困難や予期せぬ変化への対応困難、常同行動やこだわり、感覚の問題などです。
認知力や細部へのこだわり、記憶、優れたパターン認識などもありますが、これらがどのように現れるかは、言語能力やIQに大きく影響されます。
また、大きな違いとなる原因に、いくつもの発達障害が同時に現れることがあります。
自閉症であれば、消化器系の問題やてんかんがあったり、ADHDや識字障害なども同時に持っていることがめずらしくありません。不安症やうつ病もです。
最近の研究によれば、自閉症の人たちの50パーセントが少なくともそのような問題を同時に4つかかえており、自閉症の子の95パーセント以上が他の問題を1つ以上かかえています。
ニューロダイバーシティの議論に関係してくるのは、発達障害の人にみられる広範囲な特徴に注目すると、それらが「違い」なのか「障害」なのか区別することになっていき、それはニューロダイバーシティよりも、医療的な考えになっていくことです。
そして発達障害をニューロダイバーシティ「違い」として捉えるか、これまでの医療的な考え「障害」として捉えるか、どちらにも科学的な証拠もあります。
例えば、自閉症スペクトラム障害の人の約5〜15パーセントは、まれな遺伝的な変異/突然変異に起因する可能性があります。そしてその場合には、重度の発達障害ももたらします。
一方で、自閉症スペクトラム障害の人の10〜50パーセントの人は一塩基多型などの一般的な遺伝的変異に起因する可能性があります。この変異自体は自然な誰にでも起きているものです。
「機能不全」「障害」「違い」「疾患」、こうした言葉はすべて、さまざまな発達障害の状態に使われておかしくないものです。
ニューロダイバーシティ(神経多様性)は、当たり前に起こることです。
私たちの脳は一人ひとりすべて違います。
生物多様性を否定するのと同じように、ニューロダイバーシティを否定することには何の意味もありません。
発達障害の人たちのそれぞれの違いをきめ細かく見れば、その考え方に高い価値がある場面があること、障害と捉える医療的な考え方よりも適切であることがわかります。
ニューロダイバーシティの考え方が魅力的なのは、その人がかかえる困難に過度に重視しないで、バランスのとれた見方をして、その人ができることにも等しく注意を払えることです。
また、違うことがその人のアイデンティ、人格を築くものであることも認識できます。
しかし、発達障害の人はさまざまで、かかえる困難の程度も大きく異なることから、「障害」と捉える医療的な考え方も必要となるのです。
(出典:米SCIENTIFIC AMERICAN)(画像:Pixabay)
全くその通りだと思います。
うちの子は重度の発達障害、自閉症で知的障害があります。お話もできません。
瞳の色と同じように、ニューロダイバーシティの考え方で「違う」とだけされても困ってしまいます。
大きな困難があり支援に頼らなければならないのが事実です。
これまで「障害」とされたことで、特別支援学校に通えるなど多くの支援を頂いて幸せに過ごすことができています。
一方で「みんな違って、みんな同じ。」そうした多様性を認める考え方は当たり前だと思いますし、うちの子が生まれるずっと前から、私はそうした考えは好きです。
一人ひとり違って当たり前で、それぞれの人がその違いも含めて尊重されるべきです。そのほうがその人だけでなく、しいては社会、人類全体にとって良いと考えるからです。
「ニューロダイバーシティ」で人はそれぞれ違うことが当たり前で、みんなが尊重される。そして支援を必要とする「障害」者には適切な支援がこれまでのように行われる。
どっちかだけでなく、私はそうした考えを望みます。
(チャーリー)