- 障害のある人に「多様性」という言葉を使うことは意味があるのか?
- 新しい言葉である「機能的多様性」や「異なった能力」は、障害のある人たちが直面する問題を解決できるのか?
- 言葉や語ることよりも、実際に行動して障害のある人たちを支援することが重要なのか?
言葉には創造力と破壊力があります。
よりよい世界にしていくためには、正しく使うことが重要です。
社会、文化、そして技術がそうであるように言葉も時間とともに変わり、進化していきます。
しかし、言葉は正しくないことや残酷なことを隠すために使われることもあります。
悪いことやグロテスクな言葉を、やわらかな、心地よいものに代えてしまうのです。
障害がある人を指す場合に、「多様性」のような言葉を使うこともそうかもしれません。
私が生まれ育ったスペインでは、発達障害や知的障害のある人たちに対して過去には、「異常者」「知恵遅れ」「バカ」という侮蔑的な言葉が使用されていました。
2000年に世界保険機関(WHO)は、人の身体や心理的機能の喪失や異常、活動の制限、社会参加における制限などを含めるものを「障害」とし、そして、知的障害、聴覚視覚など感覚的障害、身体障害について定義しています。
そして「障害者」という言葉は、学術分野、マスコミ、政治の場面で使われるだけでなく、一般に使われる言葉になっています。
しかし、最近になってスペインでは「機能的多様性」という新しい言葉を使う人が現れてきました。
私はこれまで6年間、ネパールに住み、知的障害の子どもたちへの教育を行っています。
こうした子どもたちを指す言葉が、ネパールでもその間に変わってきました。
‘kujo’(不自由な)’lato’(バカ) ‘manasik asantulit’(狂人)という軽蔑的な言葉が昔は使われていました。
それが、ネパールの法律の一部には未だ「バカ」という言葉が使われてるものの、”apanga”(障害)’bauddhik apanga’(知的障害)という言葉が使われるようになってきたのです。
最近では、スペインのように「異なった能力」という新しい言葉を使う人や組織も出てきています。
私が教えるネパールのAsha特別支援とリハビリセンター学校には、車椅子の教師が一人います。
彼女が地元の市場を回って買い物するときには、他の人の助けが必要となります。そこには、みぞや凹凸がたくさんあるためです。
私は考えてしまいます。
私が彼女に「多様性」について伝えたときに何か意味はあるのでしょうか?
彼女は足に関わる能力をもっていません。障害があるのです。
彼女に必要なのは、車椅子を使う人が直面している困難を理解し、それに対処するための都市計画が立てられ、実行されることです。
私は教えている特別支援学校の生徒たちを見ても、同じように考えてしまいます。
生徒たちはみんな気持ちのよい、純粋で罪のない子どもたちです。
しかし、普通の学校では求められることに従うことはできません。
子どもの将来を心配している親たちに、「多様性」があるだけで困難なことはないと伝えることができたなら、他の子どもたちと同じような将来を期待するはずです。
言葉の意味について考えれば、「障害」は何ができるのか、何ができないのかを示すものです。
階段を上れるか?
一人で出かけることができるか?
普通の学校のカリキュラムに従うことができるか?
一人で食べることはできるか?
スペインでの「機能的多様性」、ネパールでの「異なった能力」、こうした言葉は誰もが社会の一員であり、参加できる社会を表明するものです。
これらの言葉は正しい。
教えている発達障害、知的障害の生徒たちの親たちも言うように、「一般的な考え」としては正しいでしょう。
しかし、一人の障害のある人に対して、「機能的多様性」がある、「異なった能力」を持っている、と言うことは正しいとはいえないと思います。
それは、現実に抱える問題をごまかしてしまう可能性があるからです。
障害のある人たちは、日常生活、社会参加に困難をかかえているのです。
「機能的多様性」がある、「異なった能力」を持っている、として障害のある人たちが直面する深刻な問題をわきに置いてしまったとしたら、よりよい社会になるのでしょうか?
こうした新しい言葉がもつ意義は「バカ」のような侮蔑的な言葉に代えて、敬意をもった言葉として利用できることのみだと考えるべきです。
私が「障害」のある人、「障害者」と言ったときには、侮辱や軽蔑する気持ちは全くありません。
その人の多面に渡るアイデンティティーの一つである、体や知性、感覚が他の人と違っているというだけを意味するものです。
「障害」という言葉を通じて、その人が日常経験している困難、社会により課せられてしまっている困難を、私も認識するものです。
こうした困難をかかえている状態を「障害」と表現するのも、絶対に正しい表現、正しい言葉であるのかは私にはわかりません。
しかし、そんなふうに言葉について考えていることよりも重要なのは、現実を変えることだということはわかります。
(出典:ネパールonline khabar)(画像:Pixabay)
みんな違って当たり前、違うのが同じ。みんな違うのが素晴らしい。
うちの子が生まれるずっと前から、私はそんなふうに思っています。
なので「多様性」「ダイバーシティ」「ニューロダイバーシティ」という考え、言葉は好きです。
うちの子は重度の発達障害、知的障害です。お話もできませんし、一人でどこかに行くこともできません。常に介助が必要です。
障害者であることで、これまで適切な支援を頂き幸せに暮らすことができています。
なのでそうした言葉や考えが好きである一方で、「多様性」という言葉や、支援なんて全く必要なくキラキラご活躍されている方も自称する「発達障害」という言葉によって、支援を必要とする発達障害の方や家族の深刻な状況が誤解されてしまわないかと危惧する気持ちもあります。
そして、啓蒙や配慮を理由に言葉や語ることが偏重されているようにも思います。
あまりに考えたり、価値づけたり、語ることばかりになったり、感動ばかりするよりも、
みんな違うのが当たり前、それを前提にお互いを思いやり、現実に対して行動してくことが、みんなにとってより素晴らしい社会につながるはずだと私も考えています。
(チャーリー)