- 発達障害や知的障害をもつ子どもや大人は、家族や周囲の人たちにどんな支援や理解を求めているのだろうか?
- 発達障害や知的障害をもつ人の幸せや成功は、一般的な考えとは異なっているのか?
- 発達障害や知的障害をもつ人が、自分らしく幸せに生きるためには、周囲の人たちにどんなアプローチが必要なのだろうか?
私と父はキャンプ用の椅子に座って、花火を見ようと丘の上の場所に座っていました。
私の娘、シャーロットは騒音が耳にはいらないようにヘッドフォンをしていました。
「シャーロットはどうしたんだい?
療育は効果が出ているかい?」
心配して父がたずねてきました。
そして私は父が何を欲しているのかを理解しました。
「娘はずっと発達障害。
治ることはないよ。
けれど、娘はうまくやっている。療育も助けになっているよ。」
父はそれを聞いて安心することはありませんでした。
父が私の娘がiPadの画面を見ているところをみて、あきらめたようでした。
娘のシャーロットは5歳の時に発達障害と診断されました。
今は9歳。
療育を受けるまでに2年待ちました。
そして療育を2年受けています。
進歩した点はありますが、思ったほどではありません。
私は娘の進歩を誇りに思っていますが、娘がレストランで食事中に騒ぎ出したり、外でパニックを起こしたりすることがあります。
幼い子であればまわりの人たちも我慢をしますが、もうそうではない年齢になりました。
大きくなるにつれて、「ふつう」ではないことがますます目立ってきました。
まわりの人たちは、娘のことを理解できていません。
まわりの人たちの厳しい目に、私はとてもつらくなります。
私もシャーロットの発達障害について、受け入れることができないときがあります。
発達障害と診断をされたとき、私は娘の未来が悲しくなりました。
治療を行おうとして医師を変えました。しかしそれは悲しみから怒りになるような出来事で、元に戻しました。
私自身も受け入れるためには数年かかりました。
今でも完璧に受け入れているとは言えません。
大声で叫んだり、強いこだわりがあったり、パニックを起こすことがないように気をつけることが多くあるのです。
私ももっと楽になればと思います。
発達障害の子がいる家族はとてもたくさんのストレスに直面しています。
私は、ふだんの暮らしや旅行でも、他の子どもたちから娘を守ることに気をつけています。
ある瞬間は、そう正直になってよいと思います。
しかし、ずっとそういう気持ちを持つことには抵抗しなければなりません。
そんな気持ちでいつづけたら、子どもを愛することができなくなると思ったのです。
私は、父も娘のシャーロットを愛していることがよくわかっています。
父が、娘が幸せになることを願っているのがよくわかります。
しかし、父はふつうの人として、娘の幸せな未来を考えます。
娘の視点での幸せな未来ではありません。またそうなってほしいという願いで娘の未来を考えています。
同じように考えた頃が私にもありました。
いつか娘もふつうになると期待しました。
しかし、シャーロットのよいところは、ふつうになることではありません。
娘の強い共感する力、芸術的な感覚、ネコとのつながりの深さなど、娘のシャーロットは音でも、においでも、そして愛でも、ふつうの人とは異なるレベルで感じています。
まるで魔法のようです。
時間が経って、私は娘に期待することが変わり、娘の進歩の捉え方も変わりました。
そうして、今は幸せな発達障害の娘になりました。
私は、まわりの人の娘への反応をみて、世界は娘が最高の自分になろうとしているのを求めていないことがわかりました。
他の子どもと同じようになることを求めているのです。
発達障害でなくなることを求めているのです。
私の娘のような発達障害の子どもは、何か欠けていたり、劣っているわけではありません。
治したり、変えたりする必要はありません。
発達障害は悲惨なことではありません。
私は、娘がふつうではないことを、克服するべき「障害」と考える世界には疲れました。
親として、私たちは子どもたちに、なりたいものにはなんにでもなれる。
そういいますが、みんながオリンピックの体操選手になったり、天体物理学者になれるわけではありません。
もっと努力して、もっと良くなるように応援をしますが、
もうすでに十分良いことを忘れてしまったりします。
私の娘には特別な才能や能力はありません。
変わった天才ではありません。
決して自立することはできません。
しかし、それらは人が勝手に考える成功像であり、そうでなくてもよいのです。
娘に必要なのは、あるがままの自分でいる自由です。
娘は今、幸せであり、発達障害です。
(出典:米thestar)(画像:Pixabay)
うちの子どももにこにこしている顔を見ると、こっちもうれしくなるくらいで、話すことができなかったりしても、思うほど毎日が辛いわけではないのかなと思ったりします。もしかすると、多くの人たちよりも幸せを多く感じているのかなと。
しかし、私には理由がわからないまま、突然泣き出したりして悲しくなっているのをみると、やっぱり辛いのかなと。
親子でも違う人間なので、わからないことが多いです。
けれど、それは発達障害、知的障害に関係なく当たり前だとも思います。違う人間だからわからない。
なので、あまり考えることはやめ、もっと単純に、たくさんにこにこしてもらおうとだけ思って、過ごしています。
みんな違っていい、ニューロダイバーシティ
(チャーリー)