- 自閉症やADHD、発達障害について、社会ではどのような固定観念やステレオタイプが存在しているのか?
- 自閉症や発達障害を持つ人が本当に必要なのは、どんなサポートや理解なのか?
- 映画やメディアにおける自閉症の描写が持つポジティブ面とネガティブ面は何か?
私は20代半ばまで自分が自閉症であることを知りませんでした。
しかし、自閉症による感覚障害、コミュニケーション障害、社会性障害、運動障害のために、私はずっと排除され、過小評価されていると感じていました。
自閉症を隠すことができるようになるまでは、人として評価されていると感じられるのは、学業で優秀な成績を収めたときだけでした。
今でも、自分が自閉症であることを伝えると、「何か特別な能力があるのか」と聞き返されることがあります。
自閉症の人は「スーパー」な能力を持っているという固定観念は、今もなお続いています。
サヴァン症候群は、知的障害を抱えながら生活している人が、一つ以上の領域で卓越したスキルや才覚を発揮することです。
しかし、サヴァン能力を持つ自閉症の人は約10パーセントしかいないと言われています。
自身も発達障害をかかえる心理療法士のタヌカ・レイは、自閉症を補うような並外れた数学的能力や写真のような記憶力が、自分の自閉症の子にはないことに失望した親に会ったことを思い出します。
レイは、この固定観念は、自閉症の子の学業に影響を与えるだけでなく、必要なサポートを受ける機会をも奪ってしまう可能性があると言います。
「自閉症やADHDに起因して、計算能力、言語能力、知覚能力に問題がある可能性があると学校側から指摘されたにもかかわらず、自分の子どもに特別支援教育を受けさせることを拒否した親を思い出します。
このようなサポートの拒否は、自閉症であるがために『自分の子は天才であるはず』という親の思い込みにも起因しているのではないかと考えています」
25歳のリシャブ・ビルラはこう言います。
「学校では、私は評価されず、受け入れられませんでした。
しかし、成績が良かった中学3年、高校3年のとき、突然、先生や他の生徒、その親から尊敬され、受け入れられ、大切にされるようになりました。
短大でも成績が良かった頃は友だちがいたものの、学業面でのサポートが必要になると離れていきました」
このことは、彼の自信と自己認識に影響を与えました。
自閉症をカモフラージュすることで、発達障害でない人たちの規範に「適合」するか、「特別な」能力で自閉症を補うことができて初めて、自閉症の人たちは評価され、少なくとも受け入れられます。
あるソーシャルメディアにはこう書かれていました。
「自閉症でない人たちに利益をもたらさない限り、自閉症の人は価値ある存在とは見なされない…
社会にとって価値があると感じるために、自閉症の人たちは特定の方法で振る舞うようプレッシャーをかける傾向がある」
自閉症に対する認識が著しく欠如している社会では、自閉症がスペクトラムであるという事実さえも、ポップカルチャーが情報源となります。
そしてそれが、実際の自閉症の人たちに不利益を与えてしまうのです。
2009年に発表された論文によると、社会が自閉症について知っていることの多くは、メディアで表現された自閉症のキャラクターに基づいており、その多くは自閉症ではない人が書いたり演じたりしたものです。
「グッド・ドクター」のショーン・マーフィー、「ビッグバン★セオリー」のシェルドン・クーパーなど、ポップカルチャーにおける自閉症(および「自閉症の疑い」のある)キャラクターの描写は数え切れないほどあります。
描かれる「障害による超能力」は、疎外されたグループの特定のメンバーを積極的にステレオタイプ化し、他のメンバーに不可能な能力をもつように設定し、疎外されていない人たちに「インスピレーション・ポルノ」を作り出すことを意味しています。
映画の中で自閉症の描写が最も成功した作品のひとつが1988年の「レインマン」です。
この作品はステレオタイプを定着させ、今後数十年にわたって多くの人に影響を与えました。
「自閉症が文化的にどのように考えられているかについての『レインマン』の影響は計り知れない。
『レインマン』以前には、自閉症がどのようなものであるかについての一般的な概念は、一般市民の間にもスクリーン上にも存在しなかった。
しかし、良心的で善意の影響であっても、長く繁栄させると息苦しくなることがある」
そう、英ガーディアン紙の記事には書かれています。
実際にそうなっています。
ライターのカール・ナイツはこう指摘します。
「この映画は、私や私が知っている自閉症の人たちが、『私は自閉症です』という発言をするときには、すぐに『私はレインマンではありません』と注釈をつけなければならないような略語になっている」
自閉症の人が「特別な存在」であるという考えは、「善意」であるかもしれませんが、すでに疎外されているグループをさらに「他者」とすることで、社会に内在する能力主義を永続させています。
「自閉症の人がスーパーヒーローであったり、特別な力を持っていると示唆することは、社会が私たちを『他人事』にして、自閉症の人から距離を置くための手段です」
さらに、「自閉症の天才」というステレオタイプがこれほどまでに繁栄しているのは、社会の障害に対する一般的な不快感、つまり能力主義のおかげかもしれません。
メディアは、「勇気」や「感動」といった言葉で障害を肯定的に表現することで、主に健常者の視聴者の不快感を和らげていますが、自閉症の人を「天才」と表現し続けることも同じように機能しています。
自閉症とは何かを説明するのに、ポップカルチャーに登場する自閉症のキャラクターに言及するのではなく、一般的に自閉症が現れる無数の方法に言及し、同じ自閉症の人は2人としていないという事実を強調することです。
しかし、人々が自閉症であることを天才であることと強く結びつけていることを考えると、おそらく長年の社会的条件のせいで、それを元に戻すことは簡単ではないかもしれません。
映画などに見られる発達障害、自閉症にまつわるステレオタイプは、自閉症の人の有害な「行動マニュアル」となってしまっています。
そして、自閉症の人を自分たちとは異なる人と考え、精神的健康に害を与えるのです。
自閉症の人はひとりひとり違います。
それは、自閉症でない人と同じです。
映画が自閉症に対する人たちの理解に与える影響が非常に大きいことを考えると、おそらく解決策は、自閉症の描写でお金を稼ぐことを選択した自閉症ではない映画制作者が、その過程に実際の自閉症の人を参加させ、観客に実際の自閉症の経験を示す窓を提供することだと考えます。
(出典:印THE SWADDLE)(画像:Pixabay)
こうした弊害があるものの、
「自閉症」「発達障害」そうした一見でわからない「目に見えない障害」について、その認知を広めたのもメディアです。
そのおかげで、支援などが厚くなってきたものとも思います。
私は、映画(とくにSF)などに発達障害や自閉症の人が出てくると、これからどんな活躍をしてくれるのかワクワクします。
そして、うちの子も実はそんな能力をもっていて、大活躍して笑顔でいるところなんかを勝手に想像して、一人で楽しくうれしくなってます。
(チャーリー)