莫大な利益を上げているにもかかわらず、ホラー映画はB級映画とみなされることが多いです。
私のような自閉症の人がホラー映画に魅力を感じるのはそのせいかもしれません。
子どもの頃はホラー映画が怖くて苦労したのに、私はこのジャンルに戻ってきてしまいました。
大きくなるにつれて、このジャンルになぜ惹かれていくのかわかりませんでした。
思春期のせい?
でも、もっと大きな何かがありました。
誰にでも好まれる映画よりも、私が殺人や悪魔などを描いた映画の方が好きだということに気付いたときには、いつも家族に恥ずかしさを感じていました。
これは、自閉症スペクトラムの人々を取り巻く偏見に対する感覚と似ています。
どれだけ自閉症の自分が大切にされていても、私の意識の一部は自閉症の人を「B級」と連想してしまうのです。
アメリカでは何百万人もの人が自閉症であると報告されているのに、社会性の欠如によって、孤独な気分になります。
それは私のような軽度の症状を持つ人にとっても難しいことがありますが、重度の自閉症の人はさらなるものでしょう。
「B級」として人気のホラー映画は、自閉症の人たちにとって楽しめるだけでなく、そこに自分が映っているように思えるものもあります。
この記事の画像はCOME PLAYから
自閉症のキャラクターが登場するホラー映画があります。
個性的な自閉症のキャラクターは、善意か悪意かにかかわらず、自閉症の人へのイメージのチェックリストになります。
一般的な自閉症のキャラクターは、社会性に問題をかかえるものの、超人的に知的な人として描かれます。
ホラーというジャンルで、映画製作者は自閉症の人には並外れた能力が期待されると一貫したイメージを与えてしまいました。
少なくとも、ホラー映画の自閉症のキャラクターは超人でなくとも、「異常」として描かれます。
「ザ・プレデター」「キューブ」などの映画が例でしょう。
それらの背後にある考え方は驚くほど似ています。
ある人物(通常は子ども、キューブのカザンの場合は子どものような態度の大人の男性)は、語彙や数学などの特定の分野で完璧な才能を持っています。
または、その障害が彼らを「特別な存在」にし、多くの場合、物語の主要な鍵として存在します。
これらのキャラクターを特別な存在とすることで、自閉症がある種の祝福であることを暗示することは、肯定的な意味で褒め言葉に思えるかもしれません。
しかし、実際には自閉症という障害に対する誤った描写です。
超人的に知的な「サヴァン」にあたる自閉症の人は約10パーセント程度だと考えられています。
こうしたキャラクターの最も顕著な例としては、「プレデター」のローリーの描写が思い浮かびます。
この少年は自閉症であることが示されています。
そして、プレデターは自閉症が人間の進化の次のステップであると考えてつけ狙うのです。
人類の進化のために必要な次のステップとして自閉症を表現することは、自閉症の一般的な要因を無視したものでしょう。
ホラー「映画」に対して、あまりにも厳しいことを言っているかもしれませんが、映画は自閉症に対する誤った情報のスピーカーになることを止められるはずです。
映画製作者はさらに悪いことに、物語を補完するために「特別な存在」を利用します。
キューブのような偉大なホラー映画でさえ、カザンはキューブの謎を解くために他の人が使う小道具のような存在です。
決して彼はひどいキャラクターではありません。映画製作者が自閉症に悪意を持って書いていることをほのめかしているわけでもありません。
しかし、実際の障害を美的選択として扱うことには危険性があります。
ホラーというジャンルは、私たちの暗い恐怖を端的に表現するものですが、自閉症の人たちの恐怖を正確に表現するためには利用されていないのは残念です。
自閉症の人がかかえる孤独の恐怖は、そうでない人とは異なるものになります。
自閉症の私たちの重荷になるこの恐怖は、自閉症とは正式に診断されていない多くの違っている人とは共有できるかもしれませんが、すべての人と共有できると考えるのは誤解でしょう。
そうは言っても、新しいホラー映画の「Come Play」には興奮しました。
この作品では、オリバーという自閉症の少年が不思議なスマホアプリの中に「ラリー」という怪物が住んでいることを知って、現実の世界で必死にオリーに会いたいと願うことから始まります。オリバーは話すことができません。アプリを使って話します。
映画の中でのオリバーの障害は、悪役への最終秘密兵器ではありません。
オリバーはただの自閉症のために孤独な少年です。
そして、自閉症が家族の家庭や社会生活にも影響を与えることを正直に語っています。
「Come Play」はホラー映画というだけでなく、自閉症の人を表現する映画として際立っています。
登場人物の自閉症は、プロットを進めるための手段として使われているわけではなく、また、謎めいた異世界の存在であることを暗示しているわけでもありません。
むしろ、自閉症はオリバーの人生の一部であり、映画はオリバーと他の人との相互作用を適切に探求することによって、この綱渡りを見せてくれます。
超自然的な映画であるにもかかわらず、オリバーの自閉症は自然です。
インターネットによって、世界中のコンテンツを見ることができるようになった今、スマートフォンの中に棲む怪物を描いたホラー映画のようなものから、自閉症への偏見は変わり始めるのかもしれません。
自閉症の人の生活についてのより正直に真実に関する種となり、映画での自閉症の人の表現を次のレベルにしてくれるのです。
自閉症との生活は、それが軽度、中等度、重度に関わらず複雑となります。
しかし一緒に成長したり、ストレスから引き裂かれたりするのを家族が助けることができる障害です。
自閉症のキャラクターを中心とした今後のホラーストーリーは「Come Play」とまったく同じであってはいけません。
映画製作者は、異なるストーリーで、他の有益で魅力的な視点から自閉症の人を表現できます。
ホラー映画はその多様性においてユニークなものです。
映画製作者は観客が慣れ親しんでいる構造や驚きを超えていかなければなりません。
自閉症は場合によっては衝撃的、心温まる、そして恐ろしい多くの実話に結びついています。
映画でそれを見ることができれば、自閉症についてよりオープンな方法で議論し、自閉症に対する偏見を壊すことにつながります。
自閉症の表現は、理解し、共感し、さらには私たち自身の方法で支援に貢献するためには欠かせないものです。
映画は物語を語る媒体です。
世界にいる約2500万人の自閉症と診断された人たちが、狂気のホラーの世界で自分たちの物語を語ることができるようになってきたと感じています。
(出典:米BLOODY DISGUSTING)(画像:COME PLAY)
偏見につながるのは困ると思います。
しかし、映画の中のスーパーヒーローになる自閉症の子どもたちを見ると、うちの子もいつかもしかしたら!?
なんて、ちょっとそんなわくわく気分になるので、SFやホラーに発達障害、知的障害の子どもや大人が出てくると私はたいていうれしくなります。
(チャーリー)