- 感情や考えを伝えることの大切さは?
- コミュニケーションの方法は一つだけ?
- 芸術を通じて自己表現することの意義は?
自分の考えや喜び、悲しみを人に伝える能力がなかったらどうでしょう。
感情があっても、それを口に出すことができないのです。
ずっと苦悩が続きました。
しかし、ジェームス・レーガンは大胆なたくさんの人に伝えられる方法を見つけることができました。
ジェームスは2歳のころまでは他の子と変わるところはありませんでしたが、2歳半になると変化が現れました。
母親のペグはこう言います。
「どんどん孤独になっていきました。
それまでは20くらいの言葉があったのですが、全くなくなってしまいました。
息子は、母親の私の名前を言うこともできなくなりました。
はっきりとその変化がわかったときは、本当に衝撃を受けました。」
ジェームスは退行を発症する発達障害と診断をされました。
大きくなるに連れて、コミュニケーション能力が失われてきました。
14歳になるまで学校に行くことはありませんでした。
「体重は28kgしかありませんでした。
兄弟からは、ジェームスは死んでいるようだと言われました。」
ジェームスが痛みを伴う自己免疫疾患にも苦しんでいることがわかったのは後からです。
手術や食事の管理をしました。
ジェームスは自分の身の回りのこともできませんでした。
あるとき、療法士がジェームスにある雑誌の1ページを絵に描いてみるように頼んでみました。
「32ページ目を描きました。
その後は36ページ目を。
すると、ナショナル・ジオグラフィックの全てのページに目を通してから、
全部のページを描き始めたのです。」
ジェームスは、クレヨンやパステル、鉛筆を使って描き続けました。
母親のペグはピカソやゴッホの画集も見せたといいます。
「息子の何かが光り輝き始めたんです。」
ジェームスが16歳のときに、医師や看護師たちと発達障害センターでパーティーをひらきました。
ジェームスが描いた絵がたくさん飾られました。
看護師の一人が、いったいどんな子どものアーティストがこれらの絵を描いたのかとたずねてきました。
母親がジェームスが描いたものだと言うとこう言われました。
「冗談でなくてですか?
私たちは、ジェームスについて何一つわかっていませんでした。」
そうして、パーティーからギャラリーに変わっていきました。
母親のペグはジミーの描いた絵が、そこですべて売れてしまったと言います。
「私はただそこに座って、こんなおかしなことがあるものかと信じられませんでした」
その後、ジェームスが手に持つのはパステルから絵筆へ変わっていきました。
まもなく、ドイツ、イタリア、シカゴ、ロサンゼルスのギャラリーにも飾られます。
「ジェームスの芸術の母と呼ばれて誇らしく思います。」
そう、サウス・セントポール第一教会の芸術担当のロシェル・レートルノーは言います。
レートルノーは、教会の中に12のジェームスの絵を飾っています。
「私たちの目標は、信仰をし精神を高めることです。
自分とは違う生き方や精神も見てほしいと思うのです。」
ジェームス、愛称ジミーの目通して見る世界、ジミーズ・アイがジェームスたちの会社とウェブサイトの名前になりました。
ジェームスの母、ペグはジェームスのサインをあしらったネクタイやハンカチを作って販売をしています。
ジェームスは24歳になりました。
リクエストに応じて、絵を描いています。
言葉は話すようになりましたが、会話はできません。
ジェームスは、絵で自分を伝えます。
「私は息子のジェームスが頭の中で何を考えているのか、いつも知りたいと考えていました。
しかし、ママはいつもそばにいるのに、絵をきちんと見ていないんだと言われた気がしました。」
これまでに、ジミーズ・アイでは何千ものグッズと500点の絵画を販売しています。
その結果、地元の慈善団体などに5万ドル(約500万円)の寄付を行うこともできています。
(出典・画像:米KARE11)
同じように、うちの子も2歳頃に言葉が全くなくなってしまいました。
残念ながら、こんなに素晴らしい絵を描くこともありません。
しかし、学校で作ってきたちぎり絵などを持って返ってくると、がんばったことが伝わってきて、とてもうれしく愛おしく思えます。
私にとっては、最高の芸術作品です。
発達障害によって氷河期を乗越え絵も描けた
(チャーリー)